音声データ

 ・音読さんで聞いて自然に感じるように違う漢字を当てたりしていますので、見た目は誤字があります

 ・新田は「ニッタ」、金平は「キンピラ」となるなど、自分の都合の良い様にはなりません

 ・音声化は当初と比べると、すごく自然にしゃべるようになりました


・宜しくお願いします。

・四国から、リモート郷土史研究で、お話しします。

・インターネットを使って、ジンノシンデンの歴史を研究しています。

・研究する過程で見つけた色々なエピソードを、紹介します。

 

 

・私の略歴。

・昭和26年、サノ割で生まれました。

・昭和45年、横浜のコンピューター会社に就職します。

・昭和49年、春に香川県高松市へ、その後は四国内を転勤します。

・平成23年、東日本大震災の年に、高松で停年を迎えました。

 

 

・神野新田は、民間人が開拓したシンデンで、2番目の大きさです。

・日本で民間人が、1,000町歩を超えるシンデン開拓に成功したのは、2つだけです。

・1つ目が神野新田で、明治29年に、1,100町歩のシンデンとして完成しました。

・2つ目が、岡山県の児島湾干拓地の藤田農場で、面積は1,230町歩で、明治45年に完成しました。

 

 

・神野新田を作り上げた方々を紹介します。

・ここではメインとなる、下の写真のカミノケとトミタケの6人を中心に紹介します。

・カミノケとトミタケはすごく近い親戚で、初代金之助から見ると、父親・兄・甥・長男ですが、甥の2人はカミノケの養子だった時期があり、6人全員がカミノケの一族と言えます。

・カミノケは、カイサイグン八開村江西、現在の愛西市、江西で、代々の庄屋でした。

・トミタケは名古屋、鉄砲チョウで小間物商のモミジ屋を営み、初代金之助の兄が養子に入り、その後、カミノケとトミタケは一体となり、モミジヤ財閥として発展していきます。

 

 

・エンリュウジとモミジ紋。

・エンリュウジは、モミジヤ財閥の、カミノケとトミタケから寄進されました。

・エンリュウジには、モミジヤ財閥のシンボルマークのモミジ紋が、鬼瓦などに施されています。

 

 

・7台カミノキンペイ、本名は、シゲツラです。

・3代富田ジュウスケ。カミノ三郎の母。初代金之助の、3人の父親です。

・家は家族に任せて、肥料の干鰯を手広く販売していました。

・モミジ屋や神野新田のサポート役で活躍しました。

 

 

・三代、富田ジュウスケ、本名は、しげまさです。

・7代ジンノキンペイの長男で、初代金之助の兄です。

・長男なのに養子に出た経緯は不明です。

・15歳で名古屋の小間物商の、モミジ屋の養子に入り、18歳でモミジ屋を継ぎます。

・横浜で舶来物を仕入れ、名古屋で初めての洋物販売で、莫大な利益を上げ、モミジ屋財閥の基礎を作りました。

・明治9年、40歳の若さで亡くなります。

 

 

・初代カミノ金之助で、本名はしげゆきです。

・16歳で、江西カミノケを継ぎます。

・20歳くらいから、兄のモミジ屋を手伝っていました。

・兄の3代富田ジュウスケが亡くなると、モミジ屋を率いて、名古屋屈指のモミジ屋財閥を作り上げました。

・三重県の土地の開発、コウタのヒシイケとジンノシンデンの開拓、多くの企業を経営しました。

・明治37年から2年間、国会議員を務めました。

 

 

・四代富田ジュウスケ。本名は、しげよしです。

・3代富田ジュウスケの長男です。

・初代金之助の甥で、娘婿でもあります。

・ジンノシンデンの開拓では、資金調達を取りまとめました。

・カントミ殖産の社長として、ジンノシンデンの発展に尽力されました。

 

 

・カミノ三郎で、旧姓は竹田です。

・初代金之助の姉、ゑいの3男です。

・初代金之助の娘、りきと、結婚します。

・分家して、豊橋カミノケの初代当主となりました。

・皆様よくご存知のように、現地責任者として神野新田の発展に尽力されました。

 

 

・二代カミノ金之助、本名はしげたかです。

・初代金之助の長男です。

・大正12年に、二代金之助を襲名しました。

・カントミ殖産の副社長として、神野新田の経営にあたりました。

 

 

 

・左の、服部長七は碧南の生まれで、人造石の発明者で、神野新田を始め、日本各地で、多くの人造石工事を成功させています。

・右の毛利祥久は、山口県の毛利藩の元家老家の当主で、百十国立銀行の重役時代に、毛利新田の開拓を決めた人で、毛利新田と牟呂用水の代表者でした。

 

 

・ジンノから、カミノへの、改称時期。

・改称時期を書いた資料は2つあり、書籍の神野三郎伝の大正の始め頃と、神野新田資料館の大正12年ですが、2つとも他の状況証拠から、間違いであることが判明しました。

・カミノと書かれた資料は明治41年以降に出てくるので、ジンノが使われていた年を追求することで絞り込み、範囲を狭めていきました。

・その結果、下にある12件の検証を取り、改称時期は明治40年と導きました。

 

 

・明治42年の渡米実業団。

・渋沢栄一を団長とする渡米実業団、51名に、初代金之助も参加しました。

・シタがアメリカでの集合写真で、渋澤栄一は1列目の中央で、その後ろが初代金之助です。

 

 

・初代金之助の身長と体重、渡米実業団の旅行記から。

・初代金之助は江戸時代の生まれで、当時 60歳、身長は 170センチ、体重は 60キロです。

 

 

・その後の、初代金之助と渋澤栄一。

・渡米実業団以降、初代金之助と渋沢栄一は、親交が深まります。

・初代金之助の頌徳碑の正面の文字と、伝記の序文は、渋沢栄一によるものです。

 

 

・しんぷうさん、圓龍寺の歴史的財産。

・本堂で展示・保管されている歴史的財産は、ネットで情報公開されていました。

 

 

・東本願寺の鐘楼と雛形。

・東本願寺の鐘楼は、キンペイ夫妻と初代金之助の連名で寄進され、明治27年に完成しました。

・鐘楼は雛形が作られ、明治28年に京都で開催された博覧会に出展され、褒状を受賞しました。

・本堂で展示されているものが、出展された雛形の実物で、今年で127歳になります。

 

 

・東本願寺の勅使門。

・勅使門は菊の門とも呼ばれ、明治44年の、親鸞聖人650年御遠忌に間に合うよう、初代金之助と、四代富田ジュウスケの連名で寄進されました。額は本堂に展示されています。

 

 

・宮部エンジョウ師の木像。

・エンジョウさんの木像は、島根県出身の石本ギョウカイの作品で、昭和6年に圓龍寺に納められました。

・石本ギョウカイは、実力が認められ、帝展には、審査を受けることなく出展できました。

 

 

・木像は2体作られた。

・昭和9年の帝展に、石本ギョウカイが、エンジョウ師の木像を出展したとの情報が入ったので、帝展の写真と、圓龍寺の像を比較しました。

・袈裟や数珠の形が違うので、帝展用に新たに作られたようですが、帝展に出展された像の行方は分かっていません。

 

 

・宮部エンジョウ師は、明治大正時代の大説経家。

・雑音を低減したものをユーチューブに上げていますので、いつでも聴くことができます。

 

 

・挿絵、居住民の、うだつ小屋生活。

・昭和27年発行の本、神野新田に、タイトル、居住民のうだつ小屋生活、の挿絵があります。

・うだつ小屋とは絵の通りの、竹を柱にして藁で屋根をかぶせただけの小屋で、風の強い時は、すき間から砂が入り、朝起きると布団の上に砂が積もっていたとのことです。

・入植当初のご先祖様は、このような粗末な家で、過酷な生活をしていたようです。

 

 

・挿絵は実際の景色だと思いました。

・本では入植者という言葉が使われていますが、タイトルは雑な書き方で居住民とあり、挿絵用で描かれたものではなく、以前に描かれていた絵を、挿絵に使ったと感じました。

・また、奥の山の形をどこかで見た記憶があり、実際の景色を描いた絵だとの思いが強くなり、描かれた場所の、特定を試みました。

 

 

・挿絵から読み取れる3つの特徴。

・1つ目は、全体的に草が少なく砂が露出しているので、塩が抜けきっていない頃と思われる。

・2つ目は、紺色の道路の両側の家が、奥にも続いており、大きな用水路は見えない。

・3つ目は、赤色で示す、直線の道路の奥の堤防越に山並、少し右に単独の山があり、周りがヒラけていることから、堤防の向こうは海だと読み取れます。

 

 

・神野新田の一番古い、明治33年の地図。

・神野新田完成の4年後で、塩は十分には抜けていない頃なので、挿絵の年代に近いと思われます。

・この地図から、5つの発見をしましたので、次から説明します。

 

 

・発見1:明治33年の集落。

・赤色で点滅の、五号と、三号と、二回に、既に現在につながる集落の原形ができています。

・二十間川を挟んだ、八軒ヤとサノ割は、まだできていません。

 

 

㉘ 

・発見2:明治33年の圓龍寺・神社・小学校。

・点滅する、圓龍寺、五号神社、カントミ神明社、二開神社と、今の駐在所の場所に有った、ジンノ尋常小学校が描かれています。

・ジンノ尋常小学校は明治35年に廃止され、牟呂尋常小学校に統合されます。

 

 

・発見3:明治33年のエンデン。

・赤色で点滅する、リ、ヌ、ル、ヲ、の割は、塩の抜けが悪く、エンデンとして開発されますが、採算が合わないため、明治35年に廃止され、田畑に転用されます。

 

 

・発見4:神野新田の道路と用水路の基準。

・道路と用水路の水平垂直の基準は、3つに分かれていて、五号は二十間川、三号は明治新田の堤防、二回は柳生川堤防となっています。

 

 

・発見5:三号から牟呂村へのアクセスルート。

・この頃の三号から牟呂村へのアクセスルートは2つしかなく、1つは、緑矢印の牟呂用水最終樋門から、イチバへ、もう一つは、青矢印の明治新田の堤防から、明治橋での大西です。

・その中間の道路に家が集中しており、三号のメイン道路となっています。

・このメイン道路は、現在の県道393号線の、みなと大通りの、1本北側の道路です。

 

 

・三号のメイン道路のその後、大正6年の地図。

・三号のメイン道路は、明治44年~、大正6年の間に、牟呂用水に中道橋が架けられて、牟呂村へのルートは、イチバと、大西と、中道橋の、3つとなりました。

・牟呂中学校横の道路はまだ無く、この地図が作られた4年後の大正10年に、水産試験場と一緒に作られます。

 

 

・挿絵が書かれた場所を特定する。

・4つの楕円は、挿絵のように道路の両側の家が、奥に続いている場所ですが、大きな用水路が無く、堤防の向こうが海で、山だけが見える道路は、赤色の楕円の、三号のメイン道路だけです。

 

 

・三号のメイン道路から見た山。

・三号のメイン道路から、挿絵と同じように直線道路の奥を見ている方向が、緑色の線です。

・緑の線の、ほぼ線上に赤色の矢印が示す蔵王があり、少し上に青色の矢印が示す姫島があります。

 

 

・下の挿絵の道路の延長が蔵王の山並で、その右が姫島とすれば、一致してると言えませんか。

 

 

・実際は、どう見えるか。

・現在メイン道路からは、埋め立て地の建物で見えませんが、ストリートビューでは、かなり右側からになりますが、シゴウの樋門の近くの、22番観音から見ることができます。

・左が蔵王などの山並で、右が姫島ですが、私がどこかで見たような山と感じたのは、この景色だと思います。

 

 

・挿絵は実際の風景を描いたものだと思います。

・挿絵は三号のメイン道路沿いに住んでいた、ご先祖様の過酷な生活を、描いた可能性が高いと思います。

 

 

・予定の時間がきましたので、これで終わらさせて戴きます。

・今後も神野新田の歴史の継承に、お役に立てるよう研究していきます。

・ありがとうございました。